障害のある子は、普通学級に行けないの? 

2019年5月23日

『おそい・はやい・ひくい・たかい』連載
小児科医
山田真

連載32 「高校三原則」から見る学区制

◆前回までのお話
小児科医・山田真さんの娘・涼さんは知的障害をもっています。小・中学校を地元の「普通学級」で過ごし、3年の浪人ののち都立高校普通科に入学しました。その軌跡とともにあるのは、東京の運動体である「障害児・者の高校入学を実現する連絡協議会」(連絡協)です。連絡協の活動を中心に運動の歴史をふり返ってきたなかで、前回は高校全入運動の流れについてくわしくふれました。

100年近く前すでに進学競争が激化!

前回は「高校三原則」というものについてお話しを始めて中途で終わってしまいました。
「高校三原則」というのは「戦後の高等学校設置の際の諸原則のうち、男女共学制、総合制、小学区制(原則として一校一学区)」の3つです。
これは戦後新たに高等学校が発足したときの理念を表したもので、本来、高等学校は義務教育の延長のような位置づけで、入学希望者は全員受け入れられるかたちになっていたのです。
全員受け入れですから入学試験もしなくてよかったのですが、それがだんだん変質して、いまのような格差のある高校になってしまったわけです。
そこでもう一度、高等学校はどうあるべきかを考えるために「高校三原則」をふり返ってみることにしました。
前回は三原則のうち、男女共学制、総合制についてお話ししたので、今回は小学区制について解説します。
小学区制を理解してもらうには、まず学区制度というものを理解してもらわねばなりません。
『現代教育史事典』(東京書籍/2001年)では学区制度について次のように説明されています。
「通学区域を指定することで入学機会を調整する制度。1920年代から中学校進学競争が激化し、その初等教育へ及ぼす弊害が高度国防国家確立の上でも看過できないとした文部省は41年11月、『総合考査制』とともに、志願者数、定員、通学距離などをもとに通学区域を指定する『学区制』の実施を各府県に推奨した。これは入学競争激化の要因である特定の学校への志願者集中を未然に防ぐと同時に、その集中の元凶である学校間格差の解消を企てる措置であった。42年に文部省はさらに実施を強く求め、43年度には前年を上回る38府県が学区制を敷いた」
これはまた古い話になりましたね。1920年代といえば、いまから100年近くも昔のことですが、当時すでに現在の高校にあたる中学校への進学競争が激化していたのです。
この傾向はよくないと文部省(現在の文部科学省)は判断しました。それで学区制の実施を各府県にすすめています(東京が都(と)になったのは、1942年7月1日のことで、それまでは東京府と東京市がありました)。

国がうたった教育の機会均等

学区制は簡単にいうと「通学区域の指定」ですが、具体的にいうと次のようになります。
市会議員などの選挙の場合は選挙区がつくられますが、それと同じように学区というものがつくられます。
その学区内に住む中学3年生、あるいは中卒の浪人生は、学区内の高校しか受験できません。
ただ、学区にも大小があって、小さい学区の場合を小学区制、大きな学区の場合を大学区制といいます。
この小学区制、大学区制についてはあとでくわしく説明することにして、学区制度について戦後の新制高等学校ではどのように導入されたかをお話ししておきましょう。
ここでも『現代教育史事典』に書かれているものを引用します。
「48年に発足した新制の公立高等学校においても、『試験地獄』の解消は容易ではないが『この他に根本的に解決の方法がない』として『なるべく多くの志願者を入学させること』とともに、『適切な学区制を実施して、志願者を各高等学校に均分させること』が強調された。『教育委員会法』の第55条はその法的な根拠を明文化したものであった」
この文章の終わりのほうに教育委員会法という法律が出てきました。この法律は1948年7月に公布・施行され、1956年に「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」ができたことによって廃止され、いまはない法律ですが、その第54条は次のようなものです(『現代教育史事典』に第55条と書かれているのは誤り)。
「都道府県委員会は、高等学校の教育の普及及びその機会均等を図るため、その所轄の地域を数箇の通学区域に分ける。但し、必要がある場合には、生徒の就学につきこれを調整することができる」
ここでも教育の機会均等ということがうたわれています。高校へ入学するために激しい競争が起こるとか、高校のあいだに格差ができるとかいうことをなるべく避けたいという国の意志のようなものが戦後まもなくの時期にはあったということです。

小学区制から大学区制へ変わるとき

それがだんだん変質していくのですが、そのひとつが小学区制から大学区制への移行です。
このことをぼく自身、体験しているので紹介します。
ぼくが中学を卒業したのは1956年でした。ぼくは岐阜県美濃市に住んでいました。
美濃市は小さな市で、高校はひとつしかありませんでした。美濃市は旧美濃町と周辺の村が合併してできた市ですが、旧美濃町にあたる地域には小学校がひとつ、中学校がひとつ、高校がひとつで、この3校はならんで建っていました。
それで町中の子どもたちが美濃小へ行き、美濃中へ行き、美濃中卒業生の半分くらいが隣の武義(むぎ)高へ進学するのでした(当時は中卒生の高校進学率は50パーセントくらいだったのです)。
それでぼくは中学生時代、当然、武義高へ進学すると思っていました。美濃市に住んでいて高校に行こうと思えば、武義高へ行くことになっていたのです。
これが小学区制ですが、中学3年生になったとき、「岐阜県は来年から全県を二区に分けた大学区制になる」というニュースが入ってきました。
(次回につづく)

前回 連載31 母親たちの願いから始まった高校全入運動


娘・涼さんと

 

プロフィール
やまだ・まこと
小児科医。八王子中央診療所所長。「子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネットワーク」代表。本誌編集協力人。

 

 

 

 

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