障害のある子は、普通学級に行けないの? 

2019年8月13日

『おそい・はやい・ひくい・たかい』連載
小児科医
山田真

連載33 大学の進学競争に影響をおよぼした「学区制」

◆前回までのお話
小児科医・山田真さんの娘・涼さんは知的障害をもっています。小・中学校を地元の「普通学級」で過ごし、3年の浪人ののち都立高校普通科に入学しました。その軌跡とともにあるのは、東京の運動体である「障害児・者の高校入学を実現する連絡協議会」(連絡協)です。連絡協の活動を中心に運動の歴史をふり返ってきたなかで、前回は「高校三原則」と学区制についてふれました。
高校制度のなかの小学区制、大学区制について、ぼく自身の経験を紹介しながらお話ししています。
ぼくが中学を卒業したのは1956年で、この年に高校に入学しました。卒業したのは岐阜県美濃市立美濃中学校で、入学したのは岐阜県立岐阜高等学校です。
中学がある美濃市と高校がある岐阜市とは、25kmほどの距離があります。でも当時は美濃市と岐阜市をつなぐ名鉄美濃町線という電車が走っていて、この電車と岐阜市内の路面電車を乗り継いで1時間半かけて通学しました(美濃町線はいまは廃線となりましたから、もう美濃市から岐阜市の高校へ通うことはできなくなっていると思います。電車のかわりにバスが走っていますが、2時間に1本くらいなので、これでは通学できないのです)。
小学区制が大学区制になり、県内の学区が二つに
さて、こんな遠くの高校へ通えるようになったのは1956年からのことで、その前年までは地元美濃市にある武義(むぎ)高へ進学することになっていました。この変化は、県立高校に関して小学区制から大学区制になったために起こったことでした。
1955年まで、岐阜県を何十ものこまかい学区に分け、その地区内に居住する中学生が公立学校に進学を希望する場合は、自分の属する学区の高校にしか進学できませんでした。
学区内に三つの高校がある場合、その三つを志望することができましたが、第一志望A高校、第二志望B高校、第三志望C高校というふうに指定します。入学試験の成績が第一志望の合格点に達していればA高校に入学できますが、A高校の合格点には達していなくてB高校の合格点には達しているという場合は、B高校に進学することになります。
ぼくの住んでいた美濃市には公立高校が一つしかありませんでしたから、第一志望も第二志望もなく、学区内の公立高校志望の中学生は、すべてその一校・武義高を志望することになります。これが小学区制です。
ところが1956年になって、岐阜県はたった二つの学区に分けられることになりました。
岐阜県はだるまのような形をした県で、日本地図で見ると上半分が飛騨地方(高山市が中心です)、下半分が美濃地方(岐阜市が中心です)の二つに大きく分かれています。
そして学区もこの二つに分けられました。飛騨地方をA地区、美濃地方をB地区と呼ぶことにしますと、美濃市に住むぼくはB地区にあるどの高校も志望できることになったのです。
B地区には岐阜高校、岐阜北高校、長良高校、岐阜商業高校、岐阜工業高校、関高校、武義高校など、たくさんの学校がありました。
市外の志望高に入学してみると……
ところで、ぼくの家は代々医者で、父は9代めでした。それで、ぼくも10代めの医者になるベく運命づけられていました。
医者になるには医学部へ行かねばなりませんが、父は〝貧しい開業医〟で「私立の医大へ入れる金はない」と常々いっていて、ぼくは国公立大の医学部へ行くしかないと思っていました。
しかし、地元の武義高から国公立の医学部へ進学できた人はほとんどいない状態でしたから、医学部を目指すなら岐阜市内の高校へ行くしかないなあとひそかに悩んでいたのです。
それが突然、大学区制になって岐阜市内の高校も受験できることになりました。大喜びで岐阜高校を受験し、運よく合格できて、岐阜市内まで電車通学することになったのです。
中学までは「体育はからっきし駄目だけど、勉強なら誰にも負けない」と天狗になっていたぼくにとって、岐阜市内に出ていくということが大きなカルチャーショックになりました。ぼくより勉強のできる人がゴロゴロいるのです。
このとき、天狗の鼻をへし折られたことが、ぼくにはとても大切な経験になり、それで少し人間的に成長したと思います。
あたりまえのようにおこなわれている高校のランクづけ
というわけで、ぼくにとって小学区制から大学区制に変わったことはプラスだったと思うのですが、この国の教育全体を考えてみると、けっしてプラスではなかったといえます。
いま、小学校、中学校での教育は高校や大学の受験のための準備教育になりはてていると思いますが、そうした歪んだ教育を生み出した一つの要因として大学区制があると考えられます。
いま、高校は有名大学への入学者数でランクづけされています。これは一部の週刊誌が4月から5月ごろにかけて有名大学の入学者数を掲載することで拍車をかけられているように思います。
最近は、医学部への入学者数が特別あつかいされるようになって、どの高校が何人医学部へ進学させたかという〝実績〟も掲載されています。
こういうランクづけをして高校間に格差をつけるのは、まったくよくないことですが、現実にはあたりまえのようにおこなわれています。
有名大学への進学競争は、昔から公立高校と私立高校のあいだでおこなわれていました。学区制はこの競争に影響をおよぼすのです。
ぼくが大学へ入ったのは1961年のことですが、このころ、進学競争では公立高校が私立高校に勝っていました。ただ、たとえば兵庫の灘高校などが私立高校の特典を活かして、入学成績を伸ばそうとしていました(公立高校はどこでも同じカリキュラムで授業をしなければいけませんが、私立高校では独自のカリキュラムを組むことができるというようなことです)。
このような状況のなかで、たとえば東京では1967年に総合選抜という入学試験の方式が導入されました。この総合選抜は、1950年に京都で蜷川虎三知事によって導入された方式で、受験生の負担を軽くし、受験競争を緩和することを目的としていました。
いまではなくなってしまった総合選抜方式について、次回にふり返ってみることにしましょう。
(次回につづく)

前回 連載32 「高校三原則」から見る学区制


娘・涼さんと

 

プロフィール
やまだ・まこと
小児科医。八王子中央診療所所長。「子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネットワーク」代表。本誌編集協力人。

 

 

 

 

おそい・はやい・ひくい・たかいNo.106
『学校に行かない子との暮らし』

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