アニメをこんなふうに観てみると

2018年11月19日

『おそい・はやい・ひくい・たかい』連載
児童文学研究者
村瀬 学

連載13 『未来のミライ』と「時をかける」世界観

(c)2018 スタジオ地図

学生たちと『未来のミライ』を観に行こうと、早くから楽しみにしておりました。日本のアニメ映画を背負って立つともいわれる、細田守監督の作品だったからです。
ところが、観に行く日が近づくにつれて、学生たちは観に行くのを渋りはじめ、とうとうちがうのを観に行こうということになりました。理由はネットの評判がとっても悪いから、というものでした。ネット、おそろしや。
せっかくお金を払って観るのだから、みんながいいというのを観たいという気持ち、わかります。でも、自分で観ないで人の判断で作品を評価していいんかい、とも思いました。それで、一人で観に行くことにしました。
すでに海外での、なんとか賞にノミネートされているとか、「海外評判」のよさを売りものにして宣伝が始まっていたのですが、実際に観終わって、学生のいいぶんが当たっていたなあと思いました。
いまの若いもんは、作品を自分で見なくても、こうやって作品の善し悪しを察知するんだと、妙な納得をしたものです。とにかく、学生にとって「おもしろい作品」ではなかっただろうなということはわかりました。
なのに、この連載で、この作品をとりあげるんですかといわれそうです。
たしかに、子育ても体験したことのない学生目線で見れば、「好きくない」(主人公くんちゃんの口癖)ところの目立つ作品に見えますが、少し立ち位置を変えて見れば、難しいことをしようとしていた作品であるところも見えてきて、「好きくないじゃない」作品に近づけることができるかもしれないと思ったからなのです。

細田監督が切り開いた「時をかけるわたし」という視点

映画のストーリーは、4歳のくんちゃんに妹(ミライ)が生まれて、両親がその妹ばかりを可愛がるので、焼き餅を焼いて、妹をぶったりするようになり、よけいにみんなからいやがられる、という話がベースにあります。

(c)2018 スタジオ地図

この部分だけを見れば、子育てをしてきた世代にとっては、けっこう思い当たるところがリアルにあって、よくできていると評価できる作品になっているのはまちがいないところです。
しかし、だからといって、それでこの作品がよかったということにはならないのです。
多くの観客は、この映画に子育てのたいへんさを描く映画ではなく、あの『サマー・ウォーズ』や『時をかける少女』のような細田監督の映画を観たいと思って来ていたのですから。
そのギャップ、子育てというリアルな世界と、細田監督の超リアルな世界の、組みあわせ方のちぐはぐさ。たぶん、その辺がいままでにない不評を買っていたのではないかと思われます。
そういうふうにいうと、「細田監督の世界」などというものを前提にしていいんですかといわれそうですが……。その世界観をひとことでいえば「時をかける世界観」とでもいえばいいでしょうか。
わたしたちは、いまここに生きて、慣れないこと、うまくやれないことにひっぱりまわされ、あたふたしながら一日一日を過ごしているわけですが、ほんとうにここに居るというのは、そういうことだけなんですかというのが、細田監督の従来から問うてきた疑問でした。
そこで切り開いたのが「時をかけるわたし」という視点でした。

ほんらいの主人公「くんちゃん」にあるふたつの世界

「時をかける」というのは、物語や地理、歴史とつながって生きているわたしたちの姿のことです。わたしたちは、自分のルーツをたどると、地理的、歴史的に、多くの人々とさまざまな種類の糸でつながっていて、そのつながりをたどってゆくと、自分につながる意外な光景が見えてくることにも出会います。
それを踏まえると、いまここからだけでは見えない、自分の未来をふくらませる手がかりを見ることにもなっているのではないか……。細田監督の問うている世界観はそういうものでした。
おそらく監督がこの作品で手がけようとしたのは「時をかけるくんちゃん」というようなものになるはずのものでした。

(c)2018 スタジオ地図

実際に4歳児のくんちゃんは、小さかったころのお母さんに出会い、いっしょに遊んでいますし、戦争を生き抜いた足の悪いひいおじいちゃんに出会い、バイクに乗せてもらったり、そして女子高生になった妹に出会ったり……なんでそんなことが、と思いますが、誰にでも、父母だけではなく、その祖父母、その曾祖父がいて、その人たちとつながっていて……ただそれらを知る機会が、ふつうはないだけなんですね。
昔は「ご先祖さま」などといういい方をして、そういう人たちとつながっているイメージをもつ文化的な「仕掛け」がありました。
たしかに、そういう人たちがいて、自分がここに居るわけで、自分がここにいることの意味を少しでも知ろうとするならば、そういう自分を創ってきたものへの、時空を越えた旅をするしかないところがあるのです。
細田監督は、この作品で、自分が大事にされないことへの八つ当たりを生きる「現在のくんちゃん」と、歴史のなかで自分がここに居られるように多くの人が大事に準備をしてくれていたことを知る「時をかけるくんちゃん」の、そのふたつの世界を組みあわせる映画を作ろうとしたわけですし、実際にもそうなっているのです。
ところが、映画の題は『未来のミライ』とされ、いかにも妹のミライちゃんが主人公であるかのような印象をあたえてしまいました。観客の不満が起こるのも無理はありません。

(c)2018 スタジオ地図

この映画で実際にミライちゃんのはたす役割はわずかにすぎません。主人公はどこからどう見てもくんちゃんだからですし、ミライちゃんが、未来からわざわざやってくる意味も、映画のなかからではよくわかりません。
そういう理由のわからない場面設定を数えてゆけば、この映画にはそれがたくさんあります。映画のなかでは「説明」らしいものが極度に省かれているからです。
どうして愛犬ゆっこが王子様として出現するのか、なぜ4歳児のお母さんの家に突然行ってしまうのか、なぜ曾おじいさんと曾おばあさんの結婚承諾がかけっこの場面だったのか……理由がわからないままに物語は進むものですから、観客は、消化不良を起こして、よくわかんなーい、ということになります。

歴史的な「時をかける」主人公を描く難しさ

でも、この映画は、細田監督の世界観で理解するしかないところがあったのです。それは「4歳児のくんちゃん」と「時をかけるくんちゃん」のふたつの世界の組みあわせ、という理解です。
問題は、そういう世界観への共感を抜きに、この映画を観たら、なにがいいたい映画なのかよくわからないということになるだろうなということでした。
また4歳児の子育ての苦労はとてもよく感じられたのに、ほかの場面はなんで出てくるのかさっぱりわからなかったということにもなったかと思います。
もしこの映画の設定が「18歳のミライ」と「時をかけるミライ」という組みあわせの設定だったとしたら、もっと多くの若い人たちの共感を得ていたかも知れません。いかにリアルに描かれていても、子育てもしない若い人たちが4歳児に感情移入して映画を見続けることはとても難しかったように思いますから。
そのことを意識して、ではアニメ映画の『時をかける少女』をふり返ってみたら、そちらのほうがよくできていたのかということになると、この『未来のミライ』を見てからの評価は微妙になることがわかります。
というのも、『時をかける少女』では、主人公は、実際の家族の地理的、歴史的な「時空をかける」主人公を描いていたのではなく、偶然に出会った青年との「時空をかける」狭い世界観を描いただけに過ぎないことが思い出されるからです。
こうした「時をかける」という世界観は、近年の映画のひとつの特徴のように思います。『君の名は。』もそうでしたし、『ハウルの動く城』もそうでした。
そして、くんちゃんが戦時中の曾おじいさんに出会ったというような出来事を、広島の出来事に絞って描いた『この世界の片隅で』が、じつは「時をかける」系に最も近い作品になっていたのではないかということにも気がつきます。

(c)2018 スタジオ地図

そういうことを総合して考えると、いまを生きる主人公が、同時に、家族の歴史、家族の時間、空間をたずねる主人公にもなるということを映画化するということが、いかに困難な挑戦であったかということがわかっていただけるのではないでしょうか。
ネット批評を真に受けて観ないですませた人と、実際に映画を観てオヤッと思った人とでは、その「困難さ」の共有のしかたがちがってくるような気がしています。

 

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プロフィール
むらせ・まなぶ
同志社女子大学特任教授(児童文化論)。第34回日本児童文学学会奨励賞受賞。
『13歳論--子どもと大人の「境界」はどこにあるのか』(洋泉社)、『宮崎駿の「深み」へ』(平凡社新書)、『長新太の絵本の不思議な世界 哲学する絵本』(晃洋書房)ほか著書多数

 

 

おそい・はやい・ひくい・たかいNo.103
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