アニメをこんなふうに観てみると

2019年5月23日

『おそい・はやい・ひくい・たかい』連載
児童文学研究者
村瀬 学

連載15 『若おかみは小学生!』に「幻の人」が登場する理由

主人公に悲しむ時間をあたえない「はじまり」

小学校6年生のおっこ(織子)と両親は、故郷のお神楽を見ての帰り道、高速道路で対向車線から飛び出してきたトラックと正面衝突する事故に遭い、奇跡的におっこだけが助かります。その結果、故郷の祖母の経営する「春の屋旅館」に身を寄せることになります。
こういう物語の始まり方は、主人公の小学生にそうとう深刻なダメージをあたえるはずですが、映画は、悲しみに打ちひしがれる状況をあまり描くことなく進むので、やっぱりアニメだからかと思わされます。
とくに、おっこに「悩み苦しむ時間」をあたえないで座敷わらしのような男の子・ウリ坊との出会いを描き、忙しい旅館の手伝いをする日々を描くことで「悲しむ時間(グリーフワーク)」をあたえないところが、この映画の「はじまり」になっています。
でも、それに似たような設定は、ほかの作品にも見られます。
母親が病気で入院中の子どもたちのあいだに、幻の生き物が現れて、子どもに悲しむ時間をあたえないようにして進む『となりのトトロ』のような作品。
親を見失い、10歳にして旅館で働く決心をする女の子の『千と千尋の神隠し』のような作品。
たしかに先行作品はあるように思われます。
現実の状況としても、東北大震災と大津波で両親を失い、祖父母に育てられながら気丈夫に生きている小学生の女の子のドキュメンタリーも放映されたことがあり、胸を打たれたことがありました。
状況は、架空の話ではなく、実際に起こりえるものでした。
問題は、そんな悲惨な状況に「座敷わらし」や「幻の人」を登場させる手法は、いったいなにをしているのかということかもしれません。それは、子どもだましのようなことをしている技法なのかと。

「食べる」ことを通して描かれる関係性

私の率直な感想を先にいいますと、映画はいかにも子ども向けアニメ映画のように始まっているなあという感じでした。
ところがいつのまにか、その違和感がなくなって映画に見入っていました。それは、春の屋旅館の厨房が描かれ出したあたりからだったように思います。
映画が「小学生の若女将」というふうな軸で動くだけではなく、お客さんに料理を作り出すというところが丁寧に描かれはじめたところから、リアリティがでてきていたのだという気がします。
たとえば、母を亡くした小学生の父子がやってきて、食事を拒み、悲しみに打ちひしがれる少年・あかねが、ケーキを食べたいと無茶をいい、おっこがなんとかそれに近いものを作ろうと奮闘する場面場ありました。
「食べる」というのは、「食物」を食べることだけではなく、「関係を食べる」ことでもあるわけですから、あかねがいくらまわりから慰められても、とりもどせない「失った母との関係」を「飲みこむ」ことができないことがわかります。
しかし、あかねはおっこの作ったプリンを食べることで、おっことの関係を食べることができるようになり、旅館のオムレツも食べることができるようになりました。おっこのはからいにより、あかねはふたたび「関係を食べる」ことができるようになったんだなあと感じました。
トラック運転手の家族が旅館にやってきたときは、なんという過酷な設定なんだろうと思いました。おっこの家族を奪った自動車事故の相手の運転手が、その人だったからです。
おそろしい展開ですが、おっこと厨房の康さんは、その一家に食べてもらえるものを作ることで、関係の修復を図ります。
食べてもらえるものを作るということは、自分も相手との忌まわしい関係を受け入れるということでもありました。
なにか話しあいでわだかまりを解いたというのはなく、「料理」を通して、おたがいに「食べられないもの」を「食べる」ようになれたという展開がとてもよかったです。

同級生とのやりとりで見える、映画を貫く大事なテーマ

占い師・水領がおっこにかかわり支える話は、西洋風の「幻人(げんじん)(幻術を使う人)」に触れた感じでしたが、ちょっとコミカルに描かれていました。
彼女はほんとうは魔界と行き来する西洋風の巫女のような存在であったと思われるのですが、映画では失恋をショッピングで憂さ晴らしし、おっこにもたくさんの服を買ってあげるお金持ちの占い師として描かれています。
本物の占い師であれば、どうして「占い」で自分の恋の行方がわからなかったのかとつい思ってしまったものですから、そこがコミカルに映ってしまった理由のひとつでしょう。
映画では、お客さんだけではなく、同級生も描かれています。
とくに、小さな春の屋旅館と対称的な、現代的な大規模旅館・秋好旅館の娘・真月とのやりとりは興味深いものがありました。
最初は、プライドの高い意地悪な女の子として登場するのですが、しだいに勉強家であることがわかってきます。
そしておっこは彼女から「食医同源」という言葉を教わります。食べることが、健康にかかわるものでなくてはならないという教えの言葉です。おそらくこの映画を貫く大事なテーマがこの「食医同源」という言葉に託されていたと感じられます。
それでも真月には、理詰めで考える癖があり、それが、映画を見ている人には鼻につくのですが、真月なりに巨大旅館の経営者としての自覚をもって動いていることはわかります。
しかし、理詰めの経営と、情を大事にする接待との対比も映画の訴えたいところだと思われました。

「神楽」が意味すること

先に「座敷わらし」や「幻の人」を登場させる映画の手法はいったいなにをしているのかと問うておきました。
それは子どもだましのようなことをしている技法なのかと。
映画では、「座敷わらし」のような「ウリ坊」が、小さくして亡くなった老女将、峰子の幼なじみであったことが、蔵にあったアルバムからわかります。
女の子のユウレイも、早くに亡くなった真月の姉であったこともわかってきます。
そういうすでに死んでいる人が、「幻の人」としておっこに見えるというのが、最初は非現実的で漫画的な発想だと思われたのですが、映画を見終わって、おっこにこういう「幻の人」とのやりとりがなければ、どんなに暗く淋しい日々を送っていただろうと思わないわけにはゆきませんでした。
ここで根本の問いかけが出てきます。
そもそも「幻の人」とはいったい誰なのか、という問いかけです。それは空想の、漫画的な存在なのかと。
物語には、大事な関係を失った人たちが次々に登場するのですが、その関係はなくなったのではなく、どこかにある、ということを訴えようとしているかのようでした。
私たちは「過去」という不思議なものを、「なくなったもの」としてではなく、「話し相手」にしていることがけっこうあるものです。
映画は「神楽」から始まって、「神楽」で終わっています。
神楽というのは、もともとは招魂、鎮魂の神祭から始まったとされていて、「招魂」「鎮魂」は、死者の魂を招きかえす儀式とされていました(『日本民俗事典』大塚民俗学会編/弘文堂)。
映画では、特別な神楽を練習するおっこと真月に、失った者とのかかわりを大事にする意志を、神楽という「形」にする工夫に託していたのではないかと思われました。
こうした神楽をふくめ、すでにいなくなった人々の意志を感じることは、どこかで「小さな神」を感じているときでもあるような気がします。
ウリ坊たち「幻の人」も、漫画的な装いはしていますが、きっと「小さな神」として主人公たち生きている人を支えてくれているのではないでしょうか。

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プロフィール
むらせ・まなぶ
同志社女子大学特任教授(児童文化論)。第34回日本児童文学学会奨励賞受賞。『13歳論――子どもと大人の「境界」はどこにあるのか』(洋泉社)、『宮崎駿の「深み」へ』(平凡社新書)ほか著書多数。近著に『『君たちはどう生きるか』に異論あり!――「人間分子観」について議論しましょう』『いじめの解決 教室に広場を――「法の人」を育てる具体的な提案』(言視舎)、『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち』(ミネルヴァ書房)。

 
 

2019年3月29日/ 若おかみは小学生! DVD スタンダード・エディション/ 税抜:3,800円(税込:4,104)/ 発売元:ギャガ・販売元:ギャガ/ (C)令丈ヒロ子・亜沙美・講談社/若おかみは小学生!製作委員会

おそい・はやい・ひくい・たかいNo.105
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