アニメをこんなふうに観てみると

2019年8月21日

『おそい・はやい・ひくい・たかい』連載
児童文学研究者
村瀬 学

連載16 実写版『アラジン』の物語にある「自由」を求める気持ち

「ダンス・ミュージカル」に作りかえられた実写版
近年ディズニーは、かつてアニメでヒットした作品を次々に3D映画として実写化してきています。もちろんディズニーにかぎらずマーベルコミックの実写化、日本アニメの実写化なども進んでいます。
3D技術の目覚ましい向上を踏まえると当然の流れかも知れませんが、基本的にはアニメ版のストーリーを踏まえて作られる3D映画の特質を、どのように批評すればよいのか戸惑うところがたくさんあります。この両者の類似と相違は、簡単な比較ではすまないところがあるからです。
今回は、久しぶりの大ヒットになっている実写版『アラジン』(2019年公開)をとりあげます。
いままでは、アニメを中心にとりあげてきているのですが、これだけアニメの実写化が出てくると、実写映画は取り上げないというわけにもゆかなくなってきています。
とくにかつての「むやみに歌って踊る」が中心のディズニーアニメ(『アラジン』も典型的にそうでした)には、「批評」のしどころがなかったのですが、今回の実写版『アラジン』の「歌って踊って」の場面はすっかり洗練された「ダンス・ミュージカル」に作りかえられていて、ストーリーよりダンスを見たい若い人たちに熱狂的に受け入れられていったように思われます。「物語」を「観る」というのではなく、「音楽(ミュージカル)」を「鑑賞」するというふうに。
女性たちの心に響く「スピーチレス」
とくにアニメ版で大ヒットした二つの歌「フレンド・ライク・ミー」と「ホール・ニュー・ワールド」はそのまま使われていますが、手のこんだダンスや映像とともに歌われるので、きっとはじめて聞くような漸新な音楽に変貌していたと思います。
しかし、なによりもこの実写映画を感銘深いものにしていたのは、主人公ジャスミン王女が最後に熱唱する「スピーチレス」の歌だったと思います。私も、映画を見終わったあと、YouTubeでこの歌のメーキング映像を何度も観たものです。
この歌は王女ジャスミンが、民衆の貧しい暮らしを見た結果、自分が王位を継承し、民衆の暮らしを立て直す志しをもつのですが、女は王になれないという決まりに阻まれます。
そのために、無理やりに結婚をさせられることになり、そのなかで歌われる歌でした。この歌が、とくに若い女性たちの心に響いたのは、王女の閉塞状況に共感したからだったと思います。
「余計なことをするな/姿を見せてもいいが口は聞くな/そんな物語は今終わるのよ」「私はくじけない/さあやってごらんなさい/私を黙らせ打ちのめしてみて/私は黙らない/静かにさせることはできないのよ」「私を見くびらないで/もう沈黙はしないから」
(「スピーチレス」歌詞和訳を一部抜粋)
“いまの香港の若い人たちは、きっとみんなこの歌を口ずさんでいるんだろうね”といっていた学生の言葉が思い出されます。「発言」のできない弱者の人たちの心の声を代弁しているかのようなこの歌は、きっと「時代の歌」になっているように思われます。

ジャスミンが歌った「みんなのために生きる意志」
そんな「ダンス・ミュージカル映画」として「鑑賞」するにしても、「物語」がどうでもいいというわけにはゆきません。もしこの最後に歌われる「スピーチレス」も、それまでにその「口が聞けない」状況が観客に伝わっていないと、十分な効果が出るようには思われないからです。実写版『アラジン』では、そこの工夫はどうしていたのかということです。
もともとのアニメ版『アラジン』でも、砂漠の王国の一人娘・ジャスミン王女が、好きでもないよその国の王子と結婚させられる風習に異を唱えて、宮殿を抜け出し、貧しい町をはじめて知ることになり、そこで出会ったドブネズミと呼ばれる青年アラジンと町を巡りまわるうちに彼が好きになり、最後は結ばれるという展開の物語でした。
この展開はある意味では、映画『ローマの休日』での王女役のオードリ・へップバーンが、王宮を抜け出し、新聞記者役のグレゴリー・ペックとローマの町中を散策するという展開に似ています。ただし、『ローマの休日』はオートバイに乗って、『アラジン』では「魔法のじゅうたん」に乗ってということになるでしょうか。
実際に、国の人々がどのような暮らしをしているのかは、少し町に出るくらいではわかりません。広い範囲を見てまわる必要があるからです。王女ジャスミンは最初のシーンで、青年アラジンに助けてもらいながら、人々の貧しい暮らしを知ることになりますが、このときは二人で歩ける範囲を見たにすぎません。
その後、「魔法のじゅうたん」で広く遠くまで国のあり方を見るという物語の設定があって、国の改革の必要性を知ることになります。おそらく、あらゆる政治家になろうとする人は、そういう「空を飛ぶじゅうたん」を持っていなければならないように思います。映画では、そんな貧しい国の改革を目指そうとするジャスミンが「スピーチレス」になっていることを歌うので、最後の場面が効果を発揮していたと思います。
こういう展開は、『アナと雪の女王』で歌われて大ヒットした「レット・イット・ゴー」が、王女エルサが「個人的なやる気」を前面に出して歌っていただけなのに対して、ジャスミンは「みんなのために生きる意志」を歌いあげるものになっていたところが、いままでにない共感を呼んでいたと思います。
「魔法のランプ」と「魔人ジーニー」にあるリアリティ

もちろん「物語」としてみれば、なんといっても、「魔法のランプ」と「魔人ジーニー」の存在なしには「面白さ」はありえません。この設定がないと、いくら「最新のダンス・ミュージカル映画」といっても、観客を魅了することはできなかったと思います。この「魔法のランプ」と「魔人ジーニー」はどう考えるとよかったのでしょうか。
『千夜一夜物語』から勝手にディズニーが切り取って使っている設定なのだと理解すれば簡単なのですが、そういうふうに理解するだけでは、この設定がたんなるおとぎ話になり、現代性がなくなります。いかにおとぎ話のように見えても、こういう物語に観客はなんらかのリアリティを感じていることはまちがいないのですから。
「ランプ」はもともとは「光の源」であり、日本でも縄文時代から出土するランプには「神の力」を宿すようなものが感じられ大事にされてきたものでした。そんな「火の元」「光の元」をもつ「ランプ」には、人々の祈りや願いが投入されてきていたと思います。
『アラジン』の物語のランプの特徴は、三つまでは願いごとをかなえてくれるものとされ、その実現に「魔人ジーニー」が関与するという設定になっています。
一つめは、アラジンを架空の王国の王子にするために。二つめは、海に落とされたアラジンを救うために。ただアニメ版とちがうのは、三つめの願いとして「魔人ジーニー」をこのランプの専属支配人のような役目から解放して、ふつうの人間にしてあげるために使われるところです。
こうして映画の全体を見れば、若者をひきつける豪華な衣装と現代風のダンス・ミュージカルの設定の背後に、一方的な支配や隷属から「自由」になろうとする、アラジン、ジャスミン、ジーニーのそれぞれの思い、願いが伝わるように作られているのがわかります。
ミュージカルを味わいながら、「自由」を求める気持ちに深く共感できるように工夫された実写版『アラジン』は、そういう意味で切実な課題を組み込んだ現代的な作品になっていると私は感じました。

アラジン公式HP https://www.disney.co.jp/movie/aladdin.html

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プロフィール
むらせ・まなぶ
同志社女子大学特任教授(児童文化論)。第34回日本児童文学学会奨励賞受賞。『13歳論――子どもと大人の「境界」はどこにあるのか』(洋泉社)、『宮崎駿の「深み」へ』(平凡社新書)ほか著書多数。近著に『『君たちはどう生きるか』に異論あり!――「人間分子観」について議論しましょう』『いじめの解決 教室に広場を――「法の人」を育てる具体的な提案』(言視舎)、『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち』(ミネルヴァ書房)。

 

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