アニメをこんなふうに観てみると

2019年12月13日

『おそい・はやい・ひくい・たかい』連載
児童文学研究者
村瀬 学

連載17 『天気の子』に感じるちぐはぐさは、どこから来るのか?

「晴れ女のアルバイト」に感じる「おかしな設定」
 映画を観ながら、観客に問いかけられているのが、「人のためにだけわが身を使うんじゃなく、自分のためにも自分を使うべきなんだよ」というようなことだったように思います。たぶんそこには、共感できるテーマがあったと思います。


Thorsten FrenzelによるPixabayからの画像

ところが、この「人のためにわが身を使う」ということが、実際の作品の展開に添ってふり返ってみたら、そんなによくわかる話になっていなかったのではないかということに気がつきます。
作品のなかで、主人公の天野陽葉(ひな)がしているのは、「祈ると晴れる」という「巫女(みこ)」のような存在です。でも、この設定に深い理由があるわけではありません。
はじめのほうで、ウエイトレスのアルバイトをしていた陽葉が、そこを辞めさせられたあと、AV系のスカウトマンに誘われてゆく経過が描かれています。ここでもう一人の主人公、森嶋帆高(ほだか)に「じゃま」されなければそのままAV女優になっていたことは、たぶんまちがいがなさそうな展開です。というのも、いやいや無理矢理にそういうスタジオに連れこまれるのではなく、本位ではないにしろ、なかば自分の意志でそこに向かっているように描かれていたからです。
にもかかわらず、観客には「AV女優になろうとしていた陽葉」をやめさせた帆高の、「やさしく勇敢な行動」が感じられるように描かれています。そこだけを見れば、帆高は、陽葉を「救った」ように見えます。
でもその後、帆高や陽葉たちに「生活費」のないことが描かれ、緊急になにか仕事をしなくてはならなくなっています。そのときに、考えついたのが、長雨の続くなかで、「人工的に晴れをつくり出す巫女」の能力を手に入れた陽葉に「晴れをつくるアルバイト」をさせるアイディアです。
こういうアイディアの出るところあたりから、なにかしら「おかしな展開」になっているような予感がしてきます。はっきりとはわかりませんが、「おや?」と感じるようなものが出てきているのです。
もちろん、物語なんだし、アニメなんですから、非現実なことが起こることにはなんの違和感もないのですが、でもこの辺から描かれる「晴れ女のアルバイト」という設定は、「そんなバイトをしていいの?」という、いいようのない不安が頭を横切ってきたからです。
というのも、東京はどこもかしこも雨続きで、誰もが「晴れ」を望んでいるのに、ある特定の人だけの希望を叶えるために、そこに「つかのまの晴れ」をつくるというのは、いくら「バイト感覚」でということにしても、「おかしな設定」のように感じるところがあったからです。
「女」に働かせる社会の仕組みと主人公の後悔


Free-PhotosによるPixabayからの画像

そしてよく考えてみたら、そもそも「晴れ女の巫女」をバイト感覚でやってみるアイディアを出すのは男の帆高のほうであり、その位置は、陽葉にAV女優のバイトをもちかけていた男たちとそんなにちがわないことではないかというようなことにも気がつきます。「仕事を女にやらせて、男はプロデュースにまわる」というポジションです。
さらにいえば、そういうバイトを考えざるをえなかったのは、15歳の帆高のせいではなく、いかがわしい『月刊ムー』を編集する須賀圭介の執拗な「せかし」があったことにも気がつきます。
こういう仕組みは、多くの若い女性アイドルをかかえる様々な芸能プロダクションに似ていなくもありません。「女」に働かせて「男」は宣伝にまわるというような構造。
でも、そういう「現実」は「よくある話」なので、そのこと自体を悪くいうことはできません。問題は、そういう仕組みをもつ社会を描くなかで、作者が「人のためにだけにわが身を使うんじゃなく、自分のためにも自分を使うべきなんだよ」というようなことを作品のテーマに見せようとしているところです。
陽葉は「晴れ女の能力」を使いすぎることで、「地上」にはいられなくなり、帆高は、今度はその「バイト」をやめるように動かざるをえなくなります。
そこに出てくるのが「人のためにだけわが身を使うんじゃなく、自分のためにも自分を使うべきなんだよ」という帆高のセリフです。映画を観ているほうにとっては、そういうところへ陽葉を追いこんできたのは、あんたじゃないかという思いもあり、ここに来てよくいうよね、と感じることにもなるのですが、作者はそういう観客の反応も察知してか、君に人のためになる巫女のバイトをすすめた自分を許してくださいと後悔する帆高を描いています。そこにまた観客は共感してくれるだろうと作者は思っているかのようでした。
それにしても、陽葉は、あまりにもいわれるがままに「晴れ女の巫女」をやりつづけているなあと思います。彼女の意志も描かなくては、と作者は思わなかったのかな、とも思いました。
気候や気象を「主役」にするのであれば
ここでなにかしらのちぐはぐさが感じられているのですが、その「感じ」がどこから来るのかということです。もしこの作品が、最初に感じたような、「人のためにだけわが身を使うんじゃなく、自分のためにも自分を使うべきなんだ」ということをメインのテーマにしたかったのであれば、陽葉が最初AV女優になって生活費を稼ごうとしたことも、ある意味での「人のためにわが身を使う」ことでもあり、「兵士になって敵を殺す」仕事も、「人(国民)のため」になっているという意味で、一概に否定されるものではないことがわかります。
なので、「AV女優になろうとした陽葉」と「晴れ女の巫女をする陽葉」を、「人のため」というテーマで分けることはできないということになり、メインテーマにするにはどうしても矛盾が感じられることになります。
そして実際には、どんな職業でも、どこかで「人のためになっている」ところがありつつも、どこかで「自分の食い扶持を稼ぐ」ことにもなっているところがあったわけで、その辺に映画として一線を引くテーマをもちこめば、「無理」感が観客に伝わることになっていたのではないかと思います。
映画の最後のほうになって、作者の狙いどおりに、「後悔」をする帆高に共感する人たちは出てくるとしても、しかし、みんながみんな、そういう共感を共有できないのは、「人のためにしている」という陽葉に、どこかしらヘンな感じを感じているところがあったからです。


Free-PhotosによるPixabayからの画像

そもそも「晴れ女の巫女」という設定が無理なところが感じられるからです。彼女が祈ると、しばらくのあいだ、ある特定の地域だけに晴れ間がおとずれる、という作品の根本にある設定。
物語なんですから、もちろんどういう設定も可能なのですが、それにしても、「天気」という誰でもが(生きものすべてがといってもいいのですが)とても日常的に支えられている巨大な素材を、すでに指摘してきましたように、ものすごく個人的な理由で左右できるような物語をつくる意味が、どうしても不気味に感じられてしまうのです。
「雨」で困っている人たちはいっぱいいるのに、ある人の結婚式だけを晴れにしてあげるとか、そういうことを「バイトの感覚」でやってゆくという設定がとても安易に感じられるのです。
「お天気」というものを、そういう個人的な動機で左右して使えるようなものに見立ててしまってもいいのかという思い。こういう発想がなぜ生まれたのかというと、そもそもの作品の前提が「東京にいつまでも続く長雨」としてしまっていたからです。
でも、実際に1ヶ月も雨が続けば、野菜は育たず、都市生活そのものが大きな破綻を迎えているはずなのですが、そういう「気象への危機感」は描かれずに、そこにつかのまの「晴れ」をもたらす「バイト」を入れるための、「予備工作」のように使われているのがとても気になりました。世界の根幹を支えてきた気候や気象を「主役」にするのなら、人々の生活とのかかわりをもっと深いところでとらえたうえでやってほしかった、という思いを最後に強くしたのです。
ちなみに、宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』も、人工的に天気を変化させることをテーマにもった物語でした。しかしそういうことをする者には、とり返しのつかない大きな代償が支払われました。
「バイト感覚」でそういうことをする発想とはずいぶんちがったものがこういう作品にはあったように思います。

前回 連載16 実写版『アラジン』の物語にある「自由」を求める気持ち
プロフィール
むらせ・まなぶ
同志社女子大学特任教授(児童文化論)。第34回日本児童文学学会奨励賞受賞。『13歳論――子どもと大人の「境界」はどこにあるのか』(洋泉社)、『宮崎駿の「深み」へ』(平凡社新書)ほか著書多数。近著に『『君たちはどう生きるか』に異論あり!――「人間分子観」について議論しましょう』『いじめの解決 教室に広場を――「法の人」を育てる具体的な提案』(言視舎)、『いじめ――10歳からの「法の人」への旅立ち』(ミネルヴァ書房)。

 

おそい・はやい・ひくい・たかいNo.106
『たんなる熱中?それとも依存?
ゲームのやりすぎを心配するとき』

好評発売中 本体価格1800円