毛利子来(たねき)さんの思い出

2018年8月2日

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Chio通信No.6 追悼・毛利子来

Chio通信No.6 追悼・毛利子来
母親は一生懸命にならない。
ズボラでいいんです。

※長野県のおひさまクラブ幼稚園、佐藤佳美さんが毛利さんを偲んでエッセイをお寄せくださいました。
毛利子来さん、お元気ですか。
と言っても毛利子来さんは今年(「ち・お」編集部注… 二〇一七年)十月二十六日に八十七歳でお亡くなりになってしまったので、この世ではなくあの世にいらっしゃって、たぶん間違いなくお元気のことと思います。
毛利さんは街の小児科医で、それとともに、子どもや子どもと暮らす大人の、現代の状況に対して温かく鋭い発言をされる文筆家であり、社会運動家でもありました。
私たち夫婦が始めた「おひさまクラブ」の名は、実は一九七三年に毛利さんが小児科医院を営みながら作ったというか生まれた共同保育の会「おひさまの会」からいただいたものなのです。
毛利さんと私たちの出会いは、私たちが初めて我が子と出会った頃とちょうど重なっています。一九八二年から翌年にかけて朝日新聞の日曜版に『赤ちゃんのいる暮らし』というコラムが連載されました。私は慌ただしい教員生活を四年過ごし、夫婦としての月日も重ね、そろそろ赤ちゃんが欲しくなっていました。私たちにとって実にタイムリーな文章だったわけですが、このコラムに惹きつけられたのは、今までの育児解説の文章とは全く違う、親の人格や生活に温かく寄り添う内容だったからです。
赤ちゃんを初めて迎えた若い両親が、日々いろんなことで喜んだり、驚いたり、困ったりしながら紡いでいく暮らしへの愛おしさや共感がこの文章には溢れていました。赤ちゃんを授かった私たち夫婦は、その子の誕生前から毎週このコラムを愛読し、コラム終了とともに単行本となった『赤ちゃんのいる暮らし』(筑摩書房)を何度も読みながら、長男との暮らしを紡いでいったのです。続篇の『幼い子のいる暮らし』も翌年には単行本になり、和田誠さんのブックデザインも挿絵も大好きで、二冊とも私たちにとって手放せない大切な本となりました。
毛利子来さんとはいったいどんな人なのだろうと興味を持ち、私たちは、著書『新エミール』、『いま、子を育てること』(いずれも筑摩書房刊)なども読み進め、毛利さんの考え方に深く共感するようになっていきました。
「おひさまの会」については『いま、子を育てること』の中に詳しく書かれていますが、毛利医院の待合室が近所の子どもたちのたまり場になり、その子どもたちのめんどうをみる若い人たちが集まるようになって、賛同する親御さんたちとともに様々な試行を続けつつ共同保育の会が生まれたのだそうです。私たちの「おひさまクラブ」の種子は、毛利さんの文章に触れたときから育ち始めていたのです。
一九九八年早春、「おひさまクラブ」を始めて十二年、園舍もでき、園児さんも二十名位になった頃、念願の毛利さんの講演会を開催することができました。演題は「予防接種と健康診断」、百人もの方が聴きに来てくれました。
毛利さんは一九九三年、季刊誌『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(ジャパンマシニスト社)の発刊に大きく関わり、編集の中心になっておられました。『ち・お』(前記の季刊誌の略称で愛称でもあります。本稿でも『ち・お』と表記します)は、子育てのための評論誌でしたが、その題名が表しているように「大きいこと強いことは、それだけでいいことではない。小さいこと弱いこともいいことなのだ。」という思想に貫かれ、社会の状況に鋭く発信していくものでした。創刊号の特集は「予防接種はどれを・どう受けますか?」でした。
毛利さんのお話をぜひ直接うかがいたくて、大それたことだとは思いましたが、『ち・お』編集室を通してお願いしたところ、なんと快く承知していただけ、この山の中の小さな園に足を運んでいただけることになったのです。嬉しくて天にも昇る心地でした。
保護者の方々に助けてもらいながら、この大きなイベントのために心躍らせながら準備を進めました。毛利さんはコーヒーとウィスキーがお好きだとのことで、ウィスキーは奮発して上等なもの用意し、ウィスキーグラスは保護者の方から借りました。
さて、当日朝、上田駅に到着する列車の時刻を聞いていましたので、保護者のNさんが駅までお出迎えに行ってくれました。みんなわくわくして「おひさまクラブ」に毛利さんが登場されるのを待っていましたところ、なんとNさんから狼狽した声で電話が入ったのです。「毛利先生がいないの。どうしたんだろう。いくら待っても、いくら探してもいないの。来られなかったんだろうか?」Nさんは今にも泣きそうで、それを聞いた私たちも青くなって、ほとんど泣きそうになりました。
その時、当時「おひさまクラブ」で飼っていた犬がワンワン吠えたのです。この犬は知らない人が来ると必ず吠えました。見ると、道路にタクシーが停まっていて、一人の男性が降りてこちらに歩いて来ます。なんと毛利さんでした。私たちはびっくりして、ほっとして、慌てて毛利さんをお迎えし、Nさんに連絡し、てんやわんやの内に講演会は始まりました。
毛利さんはサスペンダーをされたゆったりした服装で、にこやかに穏やかに、予防接種や健康診断を安易に受けることの危険性について話され、「子育てにスタンダードは無い」こと、「母親だけが責任を負うのではなく、たくさんの人とともに子どもを育てていこう」という主旨のことも話されました。
お話の後の質問コーナーでどなたかが「忙しいと、つい子どもにテレビを観せてしまうけれど、どうでしょうか?」と質問しました。すると毛利さんは事もなげに「テレビくらい観せたっていいですよ。どんどん観せてやればいいじゃない。大丈夫、大丈夫。」とおっしゃったのをよく覚えています。当時は「テレビに子守はさせないで!」などと言われていた時代でしたが、この毛利さんの言葉を聞いて、ほっとした人も(私を含めて)多かったのではないでしょうか。
どんなお昼を差し上げたのか、どんなおもてなしができたのか、さっぱり覚えていません。コーヒーとウィスキーだけはお出ししましたが、若い私たちは毛利さんのお話を聴くことだけを欲張ってその日を夢中で過ごしたのでした。
朝、駅で行方不明になったことを毛利さんは「アハハハ、僕はいつもそうなの。迎えの人が来るってわかってても、自分で勝手に来ちゃうの。だからいつもみんなを心配させちゃうんだ。アハハハハ。」と事もなげにおっしゃていました。勝手な方だったんです。それとも、今思えば何か深い意図がおありだったかもしれません。どちらにしても、Nさん、すみませんでした。
講演会が終わり、そのあともたくさんお話をし、「おひさまの会」から「おひさまクラブ」の名前を勝手にいただいたことも快く了承していただき、毛利さんがお帰りになる時間になりました。私や夫や保護者の方々は園の駐車場で車に乗られる毛利さんをお見送りしました。毛利さんは園全体をもう一度見渡して、私に「大変でしょう。」と一言おっしゃいました。私は思わず下を向いて涙が出そうになるのをこらえました。そして、その時「これで一生やっていかれる」と思ったのでした。
毛利さんのおっしゃる通り、当時は何もかもが大変でした。「おひさまクラブ」に子どもたちが来てもらえるようにすること、お金を回していくこと、人と関係を作っていくことなど、園の形ができてきたことでその大変さは始めの頃より大きくなっていました。毛利さんにわかってもらえたという嬉しさで、胸が一杯になりました。
この日毛利さんをお見送りしてからもうすぐ二十年が経とうとしています。あれからはずっと、書かれた文章を拝見するだけでしたが、いつも変わらず、子どもや子どもと生活する人に優しくより添い、その幸せを壊す社会に対して強く抗議される言葉を、私は自身の羅針盤として生きてきたのだ感じます。そしてこれからもそうやって生きていくと思います。
亡くなってもいつまでもお元気で、よろしくお願いします。
(長野県/おひさまクラブ幼稚園 佐藤佳美)
※電子ジャーナル「環」(NPO法人上田図書館倶楽部発行)より転載させていただきました。