不登校のあとの暮らし方――「働く」までのまわり道

2020年6月22日

フリーライター 野田彩花

連載4 「外に出るきっかけ」

数年前から、ときどき〈お・は〉に文章を載せていただいています、野田彩花と申します。
掲載時の肩書きは、「フリーライター」としていますが、双極性感情障害という精神的な病とのつきあいが長かったり、障害者手帳を持っていて、さまざまな障害を持つ人が集まる、就労支援の作業所に通っていたりと、いろいろなマイノリティ性や生きづらさとともに生きています。
子ども時代は、小学3年生から不登校になり、中学は1年間だけ通いましたが、中2の夏からふたたび行けなくなりました。
最終学歴は中卒で、高校には人生で一度も通ったことがありません。
この連載では不登校のあと、どう過ごしてきたか、「働くこと」を軸にふり返っていきます。

 

時間が流れていかない苦しさ
今回「外に出るきっかけ」というテーマをいただいて、私がどうしても外に出られず、家にひきこもって過ごした15歳から19歳までの4年間のことを思い返してみた。
けれど何度考えても、はっきりとしたきっかけや劇的な変化は起こらず、日々はただ連続していて、そのくり返しがつらかった。
このままでいいとは、たぶん本人がいちばん思っていなかったし「このままどこへも行けないまま、一生が終わるのかな」と考えるのはとてもこわかった。
時間や気持ちが流れていかず、苦しかったこともよく覚えている。
1分1秒がものすごく長く感じて、はやくこの苦しい気持ちが過ぎてくれと願うのに、明日やりたいことがなにもない自分に、生きている意味はあるのだろうかと考えたこと。
どんどんまっくらな気持ちになっていって、包丁で自分を刺したいとすら思った。
自分を物理的に痛めつけなくては、正気を保てないと感じたのだ。
たとえ一時でも、目には見えないこの精神的なつらさ、苦しさから逃れたい。
そのためには、もっと大きく、目に見えるかたちで自分を痛めつけるしかないと思った。
そこまでしてでも忘れたい。この苦しさから逃れたい。
台所へと向かいそうになる足を、思いとどまらせることに必死だった。
限界は、すぐ近くまでやってきていたと思う。

 

わかってほしいという気持ち
そんな物騒なことを考えていた私だけれど、それでもいっしょにいてくれる人はいた。
ひとつ屋根の下で、長い時間を過ごした母だ。
外に出られなくても気持ちはちゃんとそこにあって、考えたり感じたりすることをやめたわけではなかった。
不安に押しつぶされそうになりながらも、伝えたい思いはいっぱいあって、けれどそれをいったい誰に伝えればいいのか、どのような言葉で表現すればいいのか、当時の私にはさっぱりわからなかった。
いまこうして書くお仕事をしていて思うのは、自分がなにを伝えたいと思っているのか、伝えたいあて先はどこにあるのかを自分でわかっていることは、言葉をあつかうときにとても大切だということだ。
だけどなにごとも渦中にいるときは、そんなこと考えられなくて当たり前だし、整理された言葉じゃなくても、あて先がわかっていなくても、自分の言葉が「受けとめられた」という実感や安心感があって、はじめて育っていく作法だと思っている。
私の「受けとめられた」という実感は、外の世界に出て出会った居場所で得られることになるので、ここではまだ先の話だ。
母を相手には、いくら話しても伝わった実感が得られず、そのことに腹が立ったり、もどかしく感じていた。

 

途方に暮れながらもいっしょにいてくれた母
それでも、わかってほしいという思いや言葉が枯れなかったのは、母が私の言葉をどのように受けとめたらよいのかわからず困惑しながらも、私を拒絶していないことがわかっていたからだと思う。
伝わらないもどかしさがあったということは、伝えたい、わかってほしいという気持ちが閉じられていなかったということで、もちろん母にも体調や気持ちの余裕に幅はあったけれど、基本的に彼女は私のはてしなく長い話を聞いてくれていた。
解決するでもなく、アドバイスを口にするでもなく、ただ「困ったね……」としょんぼりした顔でくり返していた。
当時のことを母に質問してみたところ、「彩花の話は、お母さんにとってあまり考えたことのないジャンルで、ピンとこなかったけれど、苦しんでいることは伝わってきていた」らしい。
私と母はおたがいに疲弊していることや困っていることをかくさず、表に出しあって、いっしょに途方に暮れていた。
そういう4年間だったといえる。
どちらかが背追いこまずに、おたがいに途方に暮れていることをかくさない、というスタンス(?)は、意外と大事なポイントだったといまになって思う。
きれいごとだけじゃなく、あたふたしたり、困ったり、泣いたりしながらそばにいてくれる人がいたことは大きい。
あんなに苦しい日々だったのに、私がわんわん泣いて、泣き疲れたころに母が入れてくれたココアや、差し入れてくれた回転焼きのホッとする甘さを覚えている。

 

母の提案で始まった水やりの時間
そんなふうにそばにいてくれた母だからこそ、母にとっても意図したことではなく、偶然のきっかけをもたらしてくれたのだと思う。
外に出られなくなって、4回めの夏のことだった。
そのころ、いよいよ時間はほんとうにとまってしまったかのように流れていかず、はてしなく長かった。
泥のようだと感じたことを覚えている。
暑さにうまく動かない身体も、どれだけ考えても答えを出せずにいる心も、流れていかない時間も、すべてが泥のようにこのまま淀んで、沈んでいくのだろうかとも。
あるとき私は和室の畳に突っ伏しながら、いまにも畳をかきむしってしまいそうな苛立ちや、時間が流れていかない重たさを母に訴えた。
母はいつものように困った顔をしながら、こんな提案をした。
「なにもすることがないなら、庭の草木に水をやってくれない? 気分転換になるかもしれないし」。
そのとき私の心が「やってみるか」と動いたことに、特別な理由はなかったと思う。
それでも、とにかく私はその日の夕方から30分ほどかけて、ウォークマンで好きな音楽を聴きながら、草木や花に水をやるようになった。
やってみれば、それは当時の私の「できること」の限界にちょうどよく、水やりをしているときだけは、時間がきちんと流れていくようで心地よかった。
まだ自分の感覚にまともなところが残っていたとホッとして、その夏はただ、夕方を待つことで日々をしのいだ。

 

空を見上げて考えた外の世界
あの時間がなかったら、それこそほんとうに自分を包丁で刺していたかもしれない。
ほんとうの意味では、きっかけは人が意図してつくれるものではないのだろう。
その日私は、いつものように水やりを終えて蛇口を閉めた。
そしてふっと見上げた夕空が、暮れていく夏の終わりのその色があんまりきれいで、しばし見とれた。
私にとってそれはほんとうに、久しぶりに見た空だった。
何年かぶりに空があるということを思い出したかのような感覚のなかで、ぼんやりとこんなことを思ったのだ。
この世で起こることのすべては同じ、この空の下なんだな。
いま笑っている人、泣いている人。
私みたいに潰れそうな気持ちでいる人にも、今日終わる命、生まれた命にも、等しく。
あまりにきれいでかなしくて、少しだけ泣きたい気持ちになった。

それは激的な変化ではなかったかもしれない。
けれどその日の夕空をきっかけに、だんだん私は外の世界について、自分以外の人について考えるようになったのだと思う。
学校でも会社でもなく、さまざまな生きづらさを抱えた人たちが集まる居場にはじめてつながったのは、その夏が去り、秋が深くなるころだった。
人とのかかわりから一時撤退していた私が、ふたたび人と交わり学んだことや、居場所については次回に書こうと思う。
私がもう一度外の世界と出会うまで、投げ出したくなるときもあっただろうけど、いっしょに終わりのない日常を、きれいごとではすまない毎日の隣にいてくれた母に、そして家族に、あらためて感謝の気持ちをこめて、この原稿を終わりたい。。

 

前回 連載3 「身体の不調と生きていく」

のだ・あやか

大阪府出身。1988年生まれ。不登校・ひきこもり経験をしたのち、19歳でNPO法人フォロが主宰する18歳以上の居場所(現在の名称は「なるにわ」)につながる。共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会)、〈お・はNo.106〉『学校に行かない子との暮らし』(小社刊)。

撮影 小山田喜佐


おそい・はやい・ひくい・たかいNo.109
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