不登校のあとの暮らし方――「働く」までのまわり道

2020年11月14日

フリーライター 野田彩花

連載6 「母との葛藤」

数年前から、ときどき〈お・は〉に文章を載せていただいています、野田彩花と申します。
掲載時の肩書きは、「フリーライター」としていますが、双極性感情障害という精神的な病とのつきあいが長かったり、障害者手帳を持っていて、さまざまな障害を持つ人が集まる、就労支援の作業所に通っていたりと、いろいろなマイノリティ性や生きづらさとともに生きています。
子ども時代は、小学3年生から不登校になり、中学は1年間だけ通いましたが、中2の夏からふたたび行けなくなりました。
最終学歴は中卒で、高校には人生で一度も通ったことがありません。
この連載では不登校のあと、どう過ごしてきたか、「働くこと」を軸にふり返っていきます。

 

母によって守られていると感じた絵本の時間
私にとって「理想のお母さん」は長いあいだ、永遠の醒めない夢みたいなものだった。
いまは自分でやるしかないと知っている葛藤や迷いをひき受けてくれる、やさしくて果てのない幻想だ。
それは幼少期の記憶と強く結びついているのかもしれない。
幼いころの母との記憶を紐解けば、最初にあらわれるのはいつだって絵本のイメージだ。
とにかく、母はしょっちゅう絵本を読み聞かせてくれた。
彼女自身は本を読むことが大の苦手で、学校の読書の時間に途方に暮れてしまうタイプだったらしい。
子どもには本を好きになってほしいとの願いから、絵本の読み聞かせは習慣化された。
だから私は、とくに外出の日が楽しみだった。

バスや電車に揺られているあいだ、混雑した病院の待ち時間、姉のピアノのレッスン……。
ちょっとしたすきま、子どもが退屈しがちな時間に母が取り出す絵本に幼い私は夢中になったし、いつもよりもひかえめにゆったりと降ってくる母の声は、小さな世界の安心と安全の象徴だった。
お気に入りの絵本はくり返し読んだおかげで傷みやほつれがひどく、おしまいにはガムテープでむりやり綴じてしまうというありさまだったけれど、そのみすぼらしさもふくめて私の宝ものだった。
とても大切な、もうひとつの世界がそこにはあって、私はたしかに母によって守られていると感じることができた。

 

学校に行けない、「ふつう」じゃない自分を受けとめてほしい
けれども、守られた世界は長くは続かない。
小学校に入学し、大きな四角いコンクリートの校舎や均一に机のならぶ教室のなかで、安心を見つけることに私は最初からつまずいた。
小さなつまずきは石のように胸に重くつっかえて、とうとう学校へ行けなくなった9歳の秋、自分が完全に世界からはぐれてしまったことを悟った。
学校へ行けない私は、もう「ふつう」の子どもじゃないんだ。
学校へ行けないことよりも、そこに派生するクラスメイトや周囲の大人たちの戸惑いの視線にショックを受けたし、「ふつう」じゃない自分を母に受けとめてもらわなくては、世界から見捨てられてしまうという理屈ではない不安と恐怖がたちまち広がった。

たとえるのならば、それはキンモクセイの香りのようだ。
肌に頭に強く響き、ひとたび香りを感知すれば、もうなかったことにすることはむずかしい。そんな不安や恐怖。
夜になるといっそう存在感が強くなるところも似てる気がする。
さらにキンモクセイの香りは秋限定だが、不安や恐怖は一年中休むことなく追いかけてくる。とても子どもひとりでは耐えきれない。
一方で、優等生だった私が突然不登校になったことに衝撃を受けたのは母も同じこと。彼女の混乱は(もしかしたら私よりも)大きくて、昼間から寝こんでいることもあった。
学校を休んだ私は、2階の子ども部屋からパジャマのまま階段を降りていく。
階下はしんと静まり返っていて、和室から布団にくるまった母の姿が見える。
「お母さん、私のことで悩んでる。苦しんでるんだ」と思ったこと、罪悪感から声をかけられなかったことをいまも覚えている。

 

「生まれてきたくなかった」と訴えつづけた日々
中学を卒業してひきこもり状態になると、不安はますます強くなっていった。
どうしても自分の存在を“よきもの”だと思えず、ひとりでは肯定することができなかったのだ。
高校へ進学しないと決めた私に対して、母ははっきりと「自分ならばその道は選ばない」と思ったらしい。
たとえ娘であっても別の人格だと強く意識した、とも。
けれど私は、母に対してそこまでクリアーに考えることはできなかった。
思春期独特のエネルギーとあいまって、母にしつこく「謝ってほしい」「生まれてきたくなかった」と訴えていたのもこの時期だ。
もっともこれは母の後年の証言であり、私はそれほどしっかりと覚えていたわけではない。
「お母さんが悪かった」とくり返したと母はいうが、その言葉はほとんど私の記憶に残っておらず、一方で何度も責められ、そのたびに謝ってもちっとも伝わった気配がないこともあり、母はだんだん「謝ってるやん!」という感じになっていったらしい。
たぶん、「謝れ」や「生まれてきたくなかった」という言葉の裏にあった気持ちが伝わっていなかったのだろう。

私はそのころ、生きていることがとにかくつらかったし、人と同じようにできない自分に混乱していた。
生まれてくるかどうかを自分では選べない。気がついたらそこにいて、生きている。
あたりまえの話だ、と一蹴されるかもしれない。
けれど当時の私には、そうやって生きていることに対する混乱と抗議の気持ちがあり、自分を産んでくれた母を相手に「生まれてきたくなかった」と、いちばん残酷な駄々をこねていた。
もちろん、当時は必死だったし、それだけ追いつめられていた。
他人ならば「そこまで責任はもてない」と放り出せるけれど、親子では逃げ場がない。
追いつめられた私が、残酷で尖った言葉によって母を追いつめていく。
私たち親子には、そういうシーンがほんとうに何度もあった。
地獄絵図だと、いまの私ならそう思う。母にすまなかったと素直に思う。
けれど理解や和解にはまだまだ遠かった、あのころの私と母の葛藤。

 

ひらかれていく世界への不安と、母との閉じた関係を求める気持ち
19歳でつながった居場所で、はじめて自分が「このままでいい」と思える価値観をもつ人たちに出会えた。
学校に行けないことも、働けないことも「本人がいちばん苦しんでいる」という共感から、むやみに否定されることのない居場所でようやく深く息をすることがゆるされたような気分だった。
新しくできたつながりに、世間のあたりまえを問いなおす視点に私は夢中になった。

もう、母を頼らなくても大丈夫。
そんなふうに、さらっと依存や葛藤を手放すことができていたのなら、いまごろどんな親子になっていたのだろう?
現実はそれほどきれいにはいかなくて、私は自分が発見した価値観のほうへ、無理やりにでも母をひっぱっていこうとした。
傷つくことが、どこかでこわかった。
世界から私を守ってくれる防波堤であり、私の小さな領土の守り人である母ごと、新しい場所へお引っ越ししたかった。
外の世界を知って、どんどん自分がひらかれていくことが新鮮で楽しくて、だけどそのぶんだけ、不安でこわかった。ある意味で反面なのだと思う。表と裏、太陽と月のように。
ひらかれていく世界への不安を、私は自覚していなかった。その世界をすばらしいと思うぶんだけ、自由に息ができるほど「お母さん」との閉じこめられた関係を求めた。
いまにして思えば、ニコイチの関係を強要していた。
ずっと「私のお母さん」だとしか思っていなかった。
私だけのお母さんでいてほしかった。

 

「わかってほしいのにわかってくれない」4、5年続いた膠着状態
ひとつの役割や側面で固定してしまうと、関係は流れていかなくなる。
視界はどんどん狭くなり、窮屈なほうにしか向かわなくなる。
ひらかれていく新鮮さと、閉じこもってしまいたい衝動のふたつが同居していることに当時の私は気づけなくて、ただお母さんに理解してほしいだけなのに! と躍起になっていた。
感情の温度差ひとつにも激怒して、自家中毒を起こしていた。
気持ちが傷ついたり、ショックなことが起こったとき、母に訴える。
そこで期待したような同情やなぐさめがかえってこないと、たちまち「お母さんはわかっていない!」とバクハツしてしまう。
それは、ちがう人間なんだから同じ気持ちになることは無理だよ……。
過去の自分につっこみたくなる。
ついでに質問もしてみよう。
なにがそんなに気に入らなかったの?
期待どおりの反応じゃないと、期待どおりのお母さんじゃないとだめだったの?
だって! と当時の私が目に涙を溜めて訴える。
苦しいんだもの。私はずっとお母さんのことを見ていて、訴えているのにちっともわかってくれないんだもの。
ほんとうに真剣に、頭が痛くなるくらい当時の私はそう思っていた。
そこまでいくと相手を操作したい、支配したい領域に入ってしまって、もうドロ沼の膠着状態が続くしかない。
1年2年といったかわいいものではなく、居場所に通いながらも母の価値観を変えようとする攻防戦が4年5年と続いた。

 

家に帰りたくない私を受けとめてくれた場所
母とのままならなさにもんどり打つ日々のなか、けれど私は孤立していたわけではなかった。
居場所に行けば友人たちがいてくれて、ひとりぼっちではないと思えたからだ。
彼ら彼女らの存在が、どれだけ私を助けてくれたことか。
もしひとりで母への執着を深めていったとしたら、もっとずっとかなしい結末だってありえただろう。
どれだけ母とすれちがっても、言い争いのあとも居場所へ行けば、そこには友人たちがいてくれた。弱音や愚痴をゆるしてくれた。勝手な泣き言を責めずにいてくれた。
淡々と、同じ場にいてくれた。
あくまで他人ごとだけど、否定はしない。
そんなふうに受けとめてくれて、その距離感と思いやりに救われた。

私がひとりでパニックに陥ってわあっとなっていても、過剰に心配したり甘やかすことなく、静かにとなりにいていくれたこと。
どんなに家に帰りたくないと駄々をこねても、コーディネーター(管理人のような人)は必ず定時には居場所を閉める。そこでルールをゆるめたりはしない。
けれど、帰りたくないとぐずる私に、ネットカフェの場所を調べてくれたり注意事項を伝えてくれる仲間がいた(貴重品は金庫に入れておくこと、とか)。
しょうがないなあ、とカラオケのオールにつきあってくれる友人もいた。
とりあえず家には帰りなさいよ、といいながら終電ギリギリまでカフェでいっしょにお茶をしてくれる人もいた。それほど長いつきあいではなかったにもかかわらず、だ。
もちろん私の葛藤にかかわりなく、帰りたい人はさらっと帰っていった。
その、それぞれのキャパシティや関心を無理に曲げたりはせず、でも誰かがそばにいてくれるというあり方が、私の葛藤を少しずつ前に進めてくれた。
母だけが世界のすべてではなく、強く握っていたその手を離しても、もう私はいらない存在ではないのではないか?
世界にはちゃんと私の居場所はあって、大丈夫なんじゃないかな?
そんなふうに思えるようになったのだ。
自分の弱さや苦しみを話せる人がいて、みっともなくてカッコわるいままでゆるされる場があってよかったと、心から思う。
自分だけだったら、きっといまでも世界で受けとめてくれる相手は母しかいないと思いこんで、出口を見失っていたと思うのだ。

 

「ありがとう」と「ごめんなさい」が、いっぺんにやってきた瞬間
一方で、母はどのように感じていたのか。
あのころは自分の気持ちを訴えることに必死で、母がどのように感じているのかを考えることができなかった。
当時のことをインタビューしてみたところ、私の猛攻撃に困惑していたし、混乱するばかりで、どうしたらいいのかわからなかったと素直な気持ちを話してくれた。
母の姉、つまり私の伯母が駆け込み寺のような存在で、どうしようもなくなったら電話をかけて気持ちを吐き出していた。
その姿は私も覚えている。
つまり母にも弱音を受けとめてくれる人がいて、私たち親子は孤立せずにすんでいた。
また、母はわりと早い段階で私のことを「考え方のちがうタイプ」と感じていたらしい。
それを無理に変えたり、動かそうとは思わず応戦していた、とも。
 
ひたすら母を変えようと葛藤した数年間、基本的には似たような争いのくり返しに、もうダメだと何度も思った。
出口なんて、どこにもないように思えた。
けれど少しずつ、ほんとうにちっぽけに思えるような速度でも、苦しんで泣いたぶんだけ、気づけば私は前に進んでいた。
あれはどのような話の流れだったのだろう、あるとき母がぽつりと、けれどはっきりこういった。
「彩花には彩花の価値観があるのはわかる。けれどお母さんは、もう一度人生をやり直すことになっても、やっぱり学校へ行くと思う」と。
その瞬間、母との数えきれないバトルの数々、流した涙、投げつけられ傷ついた言葉……。そういうことのすべてが溶けていった。

いろんなことがあったけれど、この人をゆるせる。そう思った。
彼女がそのように考えていたことは、それこそ小学生のころからわかっていた。
だけど、面と向かって私にそれを表明したのは、このときがはじめてだった。
私はそれを、私に対する信頼だと受けとった。
率直な言葉にショックを受けることを、当然母は想像していたと思う。
けれどその言葉を受けとめることができる、私なりに咀嚼することができる。そのように私を信じてくれたのだということが、言葉ではないところで伝わってきた。
長い葛藤をくり返して、重ねたささやかな成長がちゃんと母にも伝わっていたこと。
胸が熱くなった。「ありがとう」と「ごめんなさい」が、いっぺんにやってきたような気持ちになった。
この先もきっと忘れることのない、私と母が重ねたエピソードだ。

 

必要なのは、譲ったり譲られたりのバランスを見つけていくこと
そしていま、どんなにしょうもなくても、ちっぽけに思えても、母がひとりの人格として感じていることや考えていること、得手不得手を知っていくことは、なかなか興味深いことだ。少しずつ老いて、気弱なところが見えるせつなさもある。
「私のお母さん」としての彼女だけではなく、いろんな面が見えるようにもなった。
たとえば父のパートナーとしての彼女、きょうだいの母親としての彼女……。
私に対する一面とはまたちがっていて、なんとなくおもしろい。
30歳を過ぎて、母親に対してこれだけ興味をもっている娘というのもちょっとマザコンっぽいなあ、と苦笑いする自分もどこかにいる。
いつかこのバランスの悪さを後悔する日が来ても、それはそのときの私が腹をくくってひき受けるだろう。
そんなふうに自分を信じられるようになるには、私ひとりではもちろん、母だけでもダメだった。
たとえ親でも思いどおりにはできない異なる存在であり、ちがうからこそいっしょにいることができると教えてくれた友人たち。
必要なのは100パーセントの肯定や否定ではなく、譲ったり譲られたりのバランスを見つけていくことだと、そう思っている。
この先も誰かとの関係に苦しみ、また救われながら日々は続いていくのだろう。

 

前回 連載5 「居場所との出会い」

のだ・あやか

大阪府出身。1988年生まれ。不登校・ひきこもり経験をしたのち、19歳でNPO法人フォロが主宰する18歳以上の居場所(現在の名称は「なるにわ」)につながる。共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会)、〈お・はNo.106〉『学校に行かない子との暮らし』(小社刊)。

撮影 新津岳洋


おそい・はやい・ひくい・たかいNo.109
『「不登校」「ひきこもり」の子どもが
一歩を踏みだすとき』

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