アニメをこんなふうに観てみると

2018年6月1日

『おそい・はやい・ひくい・たかい』連載
児童文学研究者
村瀬 学

連載11 『ノートルダムの鐘』は、なぜ「せむし男」が主人公なの?

 

◆『ノートルダムの鐘』(1996年)は、ディズニーアニメのなかでは異質な作品です。主人公が「せむし男」だからです。ディズニー版の原題は『ノールダムのせむし男(THE HUNCHBACK OF NOTRE DAME)』でしたが、「HUNCH(こぶ)BACK(背中)」を「せむし男」と訳すのは放送コードに引っかかるというので、邦題は「鐘」に変更されました。なぜこのような「障害」をもった主人公の作品が作られたのでしょうか。

 

 

 

醜いカジモドが恋した相手は……

物語は、15世紀末のパリが舞台です。迫害される「自由の民」(「ジプシー」をアニメではそう呼びかえています)の「醜い赤ん坊」がノートルダム大聖堂に保護されるところから始まります。

カジモド(拾われた日の暦名らしい)と名づけられたその子どもは、フロローという判事によって、大聖堂から出ることもなく鐘つき番として育てられ、20年がたちました。

大人になったカジモドはある祭りの日、こっそりと街に出て、ジプシーの踊り子・エスメラルダに出会い魅せられます。

祭りに酔った民衆は、醜いカジモドを見つけて迫害しますが、エスメラルダがかばいます。

それを見ていたフロローは、この2人に対して激しい怒りを覚えます。

自分の保護の元に生きてきたカジモドが勝手に大聖堂を出たことと、美しいエスメラルダが、そんな醜男に好意を示したということに対して。

そしてそれからフロローは、カジモドを一層大聖堂に閉じこめようとし、エスメラルダには自分の求愛を無理にでも受け入れるように画策してゆきます。

そんな2人に護衛隊の隊長・フィーバスが味方をするようになり、フロローはフィーバスも許せなくなります。

やがて3人は捕らえられ、カジモドは鎖で縛られ、エスメラルダは魔女として火あぶりの刑を受けることになります。
でもカジモドは鎖を引きちぎり、エスメラルダを危機一髪救い出し、大聖堂にかくまいます。

最後、フロローは単身、2人を殺そうとやってくるのですが、寺院の足場が崩れ、落ちて死んでしまいます。

そして、カジモドとエスメラルダとフィーバスの3人は、広場に出て、みんなに祝福されるところで終わります。

思いっきりの要約をすればそういうことになるでしょうか。

原作はビクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』(岩波文庫)ですが、アニメの元になったのは映画『ノートルダムのせむし男』(1939年)です。

この映画版は古い作品ですが、カジモドの特殊メイクや群衆の描かれ方がとてもよくできています。

もちろんユゴーの原作では、最後エスメラルダは火刑にされて終わりますが、映画やアニメでは、ハッピーエンドで終わります。

でもそれは問題ではありません。大事なことは、こういう「せむし男」を主人公にして、原作、映画、アニメが、それぞれなにを訴えようとしていたのかということです。

美男美女も、ハッピーエンドもない!?

興行成績としては『ノートルダムの鐘』は、まったく振るいませんでした。

美男美女を主人公に据えてきたディズニーアニメとしては、当然のことのように思われます。

すでにディズニーアニメ『美女と野獣』(1991年)が大ヒットしていたとしても、この野獣は最後は美男の王子に変身していたのですから、基本的には美男美女路線のアニメでした。

ディズニーアニメは基本的には「美と美」の組みあわせで人々を魅了してきたのです。

 

でも『ノートルダムの鐘』はちがっていて、カジモドは最後まで「せむし男」のままで、愛するエスメラルダが美男のフィーバスに好意を寄せるのを悔しい思いで見ているしかありませんでした。

結末はユゴーの原作とちがってハッピーエンドに終わっているように見えますが、カジモドの立場に立てばけっしてハッピーエンドではないのがわかります。

ここには「美と美」ではなく「美と醜」の組みあわせがあったからです。

 

 

 

私の関心は、映画版があったにしろ、けっしてハッピーエンドにはならないこういう「美と醜」の物語を、なぜ子どもたちに見せるアニメに作りあげようとしたのかというところです。

それも、興行的には大ヒットするとは思えないところを見越したうえで、です。

でも私は、こういうアニメを残そうとした当時のディズニーのスタッフの勇断を、とても高く評価しています。
では、この作品のどこに注目すべきなのでしょうか。

ヒロインが「ジプシー」、その背景にあるのは?

作品のまず大事なところは、エスメラルダの造型です。

彼女はそれまでのディズニー作品に見られない(そして、そのあとにも見られない)「美女」として作りあげられています。

キリリとひき締まった意志の強い褐色の顔立ち、目の色も青く輝く妖艶な東洋風の眼差しと立ちふるまい、それは従来のディズニーアニメでは類を見ない「特別な美しさをもった女性」として描かれています(ちなみにいうと『ノートルダムの鐘Ⅱ』に描かれたエスメラルダは別人のような顔立ちの女性になっています)。

多くの観客が、このエスメラルダの「美しさ」にハッとさせられるのは、彼女が「ジプシーの踊り子」という設定にもかかわっているのです。

彼女はジプシーの一員として常に迫害されながらも、意志を強くもって生きるしかないところに生まれていた「東洋の美」の象徴みたいなところにいたからです。

そんな「ジプシーの美」に、敵対者であるフロローも魅了され、求愛の苦しみを味わうところも物語の見どころです。

作品のもうひとつの見どころは、いうまでもなくエスメラルドに出会うことで、みずからの「醜さ」に気がつくことになるカジモドです。

でも、彼もジプシーの子どもだったことを思いださなくてはなりません。
ヨーロッパでは、ユダヤ人とならんで人々から迫害されてきたのがジプシーの人々でした。

そのジプシーのもつ力が、ヨーロッパの人々におそれられ、それが「美と醜」に分けて意識され、そこにエスメラルダとカジモドの造型が当てられていたのです。

おそらく2人はジプシーの「裏と表」を担っていたように思われます。

そうすると、「ジプシー」とはなにかが問われることになります。

なぜ彼らは、ヨーロッパで、魅了されつつも迫害されてきたのかと。

おそらく、定住せず、自分の土地をもたず、必要以上の所得をもたないという生き方が、土地や所得を蓄積して生きる資本主義を謳歌しはじめるヨーロッパに人々にとって、受け入れられない「奇形の生き方」を選んでいるように見えていたからであるように思われます。

こうした土地や所得を大量に手に入れる貴族と、それをもたない民衆のあいだで、その後フランス革命が起こります。

物語はそういうフランス革命の前の時代になっていますが、原作者のユゴーはまさにフランス革命とともに生きた作家でした。

大聖堂という舞台に注目してみると

私たちは、この物語を恋愛の物語のように見れば、「せむし男」のどうしても報われない悲哀のようなものを感じざるをえないのですが、この物語が「ノートルダム」と呼ばれる大聖堂が舞台になっていることにも注目すると、またちがったところが見えてきます。

「ノートル=ダム」の元の意味は「マ・ダム」という貴婦人から来ているのですが、その「マ・ダム」の「マ」が「ノートル」という「われわれの」という意味の「われわれの貴婦人」つまり「聖母マリア」の意味になり、「ノートル=ダム」といえば聖母マリアの寺院ということになってゆきました。

世界にはそういう「ノートル=ダム(聖母マリア寺院)」がたくさんあるのですが、とくに壮大で荘厳な巨大建築物としてパリに造られたものがその後に「ノートル=ダム・ド・パリ(パリのノートルダム大聖堂)」と呼ばれることになりました。

このキリスト教の大聖堂に守られて育ったカジモドと、こういう大聖堂が迫害する異教徒(ジプシー)とのあいだでくり広げられるのが、この物語でした。

『ノートルダムの鐘』は、たしかに子ども向きに作られた映画ですが、見終わったあとに感じるなぜ「せむしの男」が主人公なの?という疑問は、少し助言をもらえば、ヨーロッパの大事な歴史が見えてくるようになっているところがとても大事だと私は思っています。

プロフィール
むらせ・まなぶ
同志社女子大学特任教授(児童文化論)。第34回日本児童文学学会奨励賞受賞。
『13歳論--子どもと大人の「境界」はどこにあるのか』(洋泉社)、『宮崎駿の「深み」へ』(平凡社新書)、『長新太の絵本の不思議な世界 哲学する絵本』(晃洋書房)ほか著書多数

 

 

 

 

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