不登校のあとの暮らし方――「働く」までのまわり道

2020年8月11日

フリーライター 野田彩花

連載5 「居場所との出会い」

数年前から、ときどき〈お・は〉に文章を載せていただいています、野田彩花と申します。
掲載時の肩書きは、「フリーライター」としていますが、双極性感情障害という精神的な病とのつきあいが長かったり、障害者手帳を持っていて、さまざまな障害を持つ人が集まる、就労支援の作業所に通っていたりと、いろいろなマイノリティ性や生きづらさとともに生きています。
子ども時代は、小学3年生から不登校になり、中学は1年間だけ通いましたが、中2の夏からふたたび行けなくなりました。
最終学歴は中卒で、高校には人生で一度も通ったことがありません。
この連載では不登校のあと、どう過ごしてきたか、「働くこと」を軸にふり返っていきます。

 

求めていたのは、安心していられる家以外の場所
「学校に行きたいと思えないし、働くことはまだ無理だと思う。でも外の世界や、自分以外の人について考えたい。大人のフリースクールのような場所はないのかな」。
母にそのような相談をしたのは夏が過ぎ、風が心地よく感じられるようになった秋のことで、私は19歳になっていた。
それは「できない、つらい」ばかりだった私が、ほんとうに久しぶりに「やってみたい」と口に出したことだった。
母がいっしょにネットでそのような趣旨の居場所がないか探してくれた。

数件のヒットから大阪市にある若者の居場所(プロフィール参照)を選んだのは、正直なところ参加費がいちばん安かったからだ。
まだひとりで決めることへのハードルが高かった私に、「行ってみてあわなかったら帰ってきたらいいじゃない」と母が背中を押してくれた。
電車やバスに乗ると具合が悪くなる私のために父は車を出してくれて、母は居場所までいっしょについてきてくれた。
そんなふうに両親が私をアシストしてくれたおかげで、居場所へとつながることができた。
アルバイトでも就労支援でもなく居場所が必要だった理由はいくつかあるが、働くことのハードルはとてつもなく高かった。
「こんな自分ではとてもムリ」というおそれや恐怖心を抱いていたし、当時の私にとって働くことのイメージは父だった。
サラリーマンとして朝早くから夜遅くまで働いている父のことを幼いころから大変そうだと思っていたし、そのほかの働き方への具体的なイメージがつかなかった。
父以外のモデルケースが不在で、父の働き方のみを強く内面化していたのだろう。
ミスをすることが許されないというイメージも強くて、自分のような存在が渡っていけるとはとても思えない世界だったのだ。
私が求めていたのは安心して家以外の場所にいられること、まずはそこからだった。

 

自分のことを「困った人」とまなざさない人たち
はじめて居場所の扉の前に立ったときは、とても緊張していた。
勝手な想像だが笑顔の中年女性に「よく来たわねー」などと歓迎されたら、全力で逃げようと身がまえていた。
けれど私を出迎えたのは愛想がないとまではいかなくとも、淡々とした対応の線の細い男性だった。
最初に母とその男性(コーディネーターをされている)を交えた3人で面談のようなことをしてから、参加者の輪のなかに入っていった。どきどきしていた。
少し前に助産院へ見学に行ってきたらしく、その日は出産についてや幼いころの記憶などが話題の中心だった。
積極的に会話をする人、ぽつぽつとしゃべる人、本を読みながらみんなの話を聞いている人、梅ジャムをクラッカーにつけてひたすらバリバリ食べている人(少し驚いた)、いろんな人が輪をつくっていて、私の緊張はだんだんととけていった。
その日のうちに、「ここは息がしやすい。ここにいたい」と思った。

私が居場所に居心地のよさを感じた理由のひとつは、誰もがんばって私を助けようとしないところだった。
人にはそれぞれに事情や痛みがあって、それは一言では説明できないこと、だから無理に説明する必要はなく、話したいと感じたタイミングで少しずつ話していけばいいのだということが言葉ではないところで共有されている雰囲気を感じ、そのことに安堵した。
ひきこもり状態が続くなかで世間や外の目にはひどく敏感になっていた私は、「この先はどうするの?」「そんな状態で大丈夫?」「外に出られないなんてかわいそう。でも甘えているだけではないの?」などなど直接いってくる人はいなくても、象徴的な世間のまなざしや圧力を深く内面化していた。
そんなこともあって、私のことを「困った人」とか「かわいそうな存在」とまなざさない人たちとの出会いにずいぶん肩の力が抜けたのだ。

 

大切でやっかいな気持ちをくれた、つながりのなかで
そして、安心というのは心だけでなく、身体でも感じるものだと思う。
居場所には「身体の安心も大事にしよう」という思いから、晩ごはんをつくってみんなでいっしょに食べる習慣があった。
食材の買い出しから食器洗いといったあとかたづけまで、協力しあっておこなうのだ。
家族でもなく、たまたまその日同じ場所に集まった人たちといっしょに食卓を囲むのは、最初はちょっと不思議な気持ちがする。
けれど家族との葛藤や些細なすれちがいに疲れたとき、外でひとりで食事をする気力がわいてこないときなどに居場所のみんなと食べる晩ごはんに、私は何度も助けられた。
心がほかほかして、なのにちょっと切なくて泣きたくなるようなあの気持ちを、忘れることはないと思うのだ。
過ぎていく日々のなか、人と交わるなかで気持ちが通じてうれしくなったり、もめごとのあとのごめんなさいや、傷つけ傷つけられるくり返しのうちに、より深く自分を、相手を知っていったこと。
一等大切で、同時に一等大変だった人とのかかわりのことは、けれど簡単には言葉にできないし、したくない。
ただ、こんなにも大切でやっかいな気持ちをくれた人とのつながりを、最初から意識して求めていたわけではなかったと思う。
もし意識して考えていたら、かえって踏み出せなかったかもしれない。
関係も人も生きていて、変化していくものなのだ。

 

「助けて」が受けとめられて、はじめて育つもの
一方で、親は少しでもいい方向へ進んでほしいと願うもので、先のことを考えて困らないように準備をしなくてはと思うらしい。
私の親もそうだった。
小学校高学年のとき、不登校の最初の混乱が少しおさまってきたこともあって、母が勉強することをすすめてきた。
私は「ようやく少しラクに息ができるようになったのに!」と怒り、反発したことを覚えている。
就労支援や復学のための勉強は、いまの状態から前進できている気がして、家族や周囲の人は安心だろう。その気持ちは責められない。
でも当事者にとっては、いまが精いっぱいなのだ。
いまこの瞬間をしのぐこと、流れていかない時間のなかにいることだけでいっぱいいっぱなのだ。
そのように表現されると、多くの人は「いや、私だって精いっぱいだし、余裕がないけどがんばっているよ」と思うかもしれない。もちろん、そのがんばりを否定する気持ちはない。
私もいまは書くこと、週に1回の賃労働を両立することにいっぱいいっぱいだ。
だけどひきこもり状態だったころの精いっぱいといまのそれとは、まるで別の惑星にいるみたいにしんどさやキツさがちがうのだ。
みんな、やっとの思いでSOSを発しているのだと思う。
私が「居場所へ行きたい」といったのも一種のSOSだった。
そこによかれと思ってでも、就労支援や勉強の提案をされることは「助けて」と訴えているのに「もっとがんばらないと!」と叱責されているように感じてしまう。
やっとの思いで発した「助けて」が受けとめられて、はじめて世界や人に対する信頼が、これもまたやっとの思いで育っていくのだと、そう思うのだ。

ただ、これは私の道のりに過ぎないので、正解ではない。
「このようにすれば大丈夫。安心ですよ」などと謳う説明書は、誰の人生にも存在しないのだから。
だから、親御さんをはじめ周囲の人たちにお願いしたいのは、あくまで後方支援であり力添えで、むりやり腕をひっぱっていくことではない。
親はよかれと思って口や手を出したくなるものでも、ぐっと堪えるくらいでちょうどよいと、これも正解ではないかもしれないけれど、そう思う。

 

前回 連載4 「外に出るきっかけ」

のだ・あやか

大阪府出身。1988年生まれ。不登校・ひきこもり経験をしたのち、19歳でNPO法人フォロが主宰する18歳以上の居場所(現在の名称は「なるにわ」)につながる。共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会)、〈お・はNo.106〉『学校に行かない子との暮らし』(小社刊)。

撮影 小山田喜佐/新津岳洋


おそい・はやい・ひくい・たかいNo.109
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